死刑制度は必要か否か 2

死刑制度は必要か否か 2
よろず

死刑制度に関する話:続編

Oさま

人権保護活動って、そんなに甘っちょろいですかね?人が人として当然のように生きてゆく権利。自分たちが守らないで誰が守ってくれるの?国か?社会か?それこそ考えが甘っちょろいですよ。

当然、まみやさんが言う通り、何の考えもなしに一足飛びで死刑反対を唱えるのは間違ってると思う。被害者の感情を、権利を、もっと大事にすべきだと思う。でもさぁ…そんなにコケにしなくてもいいんじゃないかなぁ?

殺人犯にだって家族はいる。その人が死んで、いなくなって、悲しむ人が一人もいない人間って、いるんでしょうか。もし、いたとして、そういう人なら、殺しちゃってもいいんでしょうか?

確かに愛する人を殺されて、加害者を殺したいっていう気持ちになるのはわかる気がする。まみやさんのテキストを読んでるだけで、想像して背筋が寒くなった。でも、死んで償うのって、なんか違う気がする。生きて、一生かけて償うほうがいい気がする。

加害者が、時間かけて改心して、心から被害者に謝罪できるなら、社会に貢献できるような人間になれるのなら、喜んでそれに税金使いましょうよ。それこそ正しい使い道だと僕は思う。加害者が改心するなら、ね。

自分がそういう事件にあったことがないからわからないことだらけだし、答えは出せそうにないけれど、やっぱり、これって甘い考えかな。自分がそういう事件にあったことがないから言えることなのかな。理想は理想でしかない…かな?

Sさま

親が子供を殺した場合と、子供が親を殺した場合と、罪の重さはということですが、それは概ね子殺しよりも親殺しのほうが罪は重いそうです。これは今現在はどうか定かではありませんが、僕が死刑について習った頃、5,6年前ですか。その当時はこれが当たり前だったようです。

法律では人間の存在は権利は皆平等でありますが、慣習的に親が子を殺すことよりも子が親を殺すことが悪いってことになってたようです。つまり親と子の関係は平等ではないってことですかね。これは日本が儒教の流れの中にいるってことが関係してるようです。

Iさま

親が子を、子が親を・・・どっちが重いかというか、少し前まで、親族殺し「尊属殺人」というのですが、それは懲役刑の可能性がある「殺人」とは別枠で、「死刑」「無期」のどちらかだったんです。(つまり尊属殺人には懲役刑がない)が、それは憲法第14条の法の下の平等に反するという判例がでまして、法律は残ってますが適応はされません。

Kさま

重たいテーマですよね。何せ人の命に直接関わることだから、簡単に判断できることではありません。

神ならぬ人間が裁いて決めることですから、現行犯でない限りどんな場合でも冤罪はあり得ます。僕が最も有ってはならないと思うものの一つが冤罪です。ただ犯罪が凶悪で有ればあるほど、「冤罪であった」として最終的に無罪と判定するのもかなり危険ではありますが。その判断が間違っている可能性もありますからね。

死刑は冤罪の可能性を完全に否定する行為ですから、適用の判断は極めて難しいでしょうね。生きてさえいれば、いつか冤罪がはれる可能性もあるわけで、死んでしまっては取り返しが利かないのだから。たぶん、「死刑反対」の論拠の一つになりうると思います。

一方で一般市民の安全を考えるなら、死刑は必要なことにも思えるのです。更正の可能性のない凶悪犯が15年程度の服役で出てこられた日には危なくてしょうがない。死刑はこの危険性を無くす有効な手段の一つです。

ただこれは、終身刑をもって代えることが出来そうです。まあ、「脱走」ということも有り得ないことではないですが。

刑務所の空き問題や、受刑者を養う税金の問題、そして諸々の「感情論」を考慮しなければ、修正の利く「終身刑」が極刑として妥当のような気がします。「死刑」の可否はともかく、実質懲役15年の「無期懲役」の次に「終身刑」は存在してしかるべきと考えます。

今回はとても大切ですが一番やっかいな「感情論」をあえて抜きにして「死刑」の有効性を考えてみました。何故かっていうと、正直わかんないんですよ。幸いにして加害者・被害者双方の立場に直接にも間接にも関わったことがないので。ある程度想像は出来ますが、実感は出来ません。双方の立場を実感してみないことには「感情論」において正しい判断をする自信がないんです。なさけないことに。でももし実感したら、今度は「理性的な判断」が出来なくなってしまう気がします。勿論、実感してみたいとも絶対思いません。

今の自分としての結論はなんだろうなぁ。かなり消極的な「死刑反対」かもしれません。

Kさま

人を噛んだ動物はまず間違いなく殺されるのに、人を殺した人は何故必ずしも殺されないのか。

精神鑑定で「責任能力なし」と出た場合、償いのために死刑に処すことはできないというなら、生かしておくに値しないという理由で間引いてもよいのではないか。

人を殺すなんて行為自体、真っ当な神経が機能していればし得ないことだろうから、被害者の遺族に「仇討ち」をさせるのは無理ではないか。そもそも相手を「我が手で」殺してしまったら、被害者遺族までが加害者と同じ立場に堕してしまう。

とりあえず、詐欺と殺人の刑期が同じ7年、てのは納得がいかない。いくもんかい。

Nさま

みなさんは、人を殺した者は全て死刑になるべきだ、とお考えなのですか?

いいえ。多分ここに書いてあることでそういう意図の発言はなかったかと思いますが、オレが思うのは、「加害者に反省の兆しがなく、人間的に救いがたい人」は死刑にすべし、ということです。

本当はあってはならないけど、「やむを得ず」人を傷つけ、その延長で死に至らしてしまう場合は確実にあると思うんです。例えば、腹が立って突き飛ばしたら頭をぶつけて帰らぬ人になってしまう場合とか。何もそうやって罪を犯してしまった人にまでそんな事は言えません。そういった人の多くは人にいわれなくても自分で自分を壊してしまうほど苦しむのですから。

私が思うのは、「みなさんは被害者にしかなり得ない人物なのですか?

どんな場合がこの先あるかはわかりませんが、オレは自分が狂った殺人者になったら死刑もアリ、むしろ殺すべきだと思います。しかし、そうやって「自分が加害者になったときにそうやられたらやだ」といった考え方では刑罰なんて限りなく軽くなってしまうのです。「これだったら受けてもいいかな」なんてのはね。むしろ、「こんな刑罰は受けたくない」ではないと。

前に私の知り合いが、法というものは「全ての人に」やさしく、また「全ての人に」厳しくなければいけないんだというのを聞いて感心したのを思い出しました。

その言葉はとてもいい言葉だとは思いますが、オレはそれ以前に、「殺人者」はその被害者の「生きる権利」を奪い取る行為をしていますよね?神戸の少年Aとか、「ただ殺してみたい」から「人の生きる権利」を奪うような輩に対してまではそんな事は言えません。それに、「すべての人に優しく」という言葉はしばしば「厳しくされるべき人間にも甘やかしを含めて優しくする」と曲解されがちです。人を殺してしまった人、その人に本当に同情の余地はあるのでしょうか?まずはそれぞれのケースでそれを考えてみて欲しいのです。それこそは本当に柔軟に考えなくてはならないですけど。

オレは「全てに人に平等」というのは、すべての人に同等の権利を与えるのではなくすべての人がその立場や状況に応じた権利を得ることだと思います。オレは「すべての人に同等の権利を与える」ことははっきりいってクソクラエだと思います。ものすごく難しいですけどね。

Dさま

読ませていただいて、考えて、考え発散しました;
死刑が賛成だ、という意見の真意は、「一番上の量刑に死刑があること」なのでしょうか。「一番悪い奴を死刑にすること」なのでしょうか。。。

「一番悪い奴を死刑にすること」ができるのなら、「一番上の量刑に死刑があること」にはもろ手を上げて、賛成です。

まみや

人が人として当然のように生きてゆく権利。自分たちが守らないで誰が守ってくれるの ?

これ、被害者の遺族の前で言えますか ?「当然のように生きてゆく権利を加害者だって守りたいんです。」と。「ヒトとして生きて行く権利を守りたいんです。」と。

日本国憲法の第11条に「基本的人権」があります。そこには「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として」とあります。被害者の人権も侵されるべきではなかったのでは ?

殺人犯にだって家族はいる。

だったら、家族を殺されたらどれだけ辛いか、わかっても良さそうなもんですけどね。その部分を無視して論じますか ?「殺人犯にだって家族が居るんだから、殺人犯が死んだら悲しむヒトだって居る」

例えば、通り魔によって失われる命と、その通り魔が受けた刑罰で失われる命を「失い方」や「失った理由」を無視して一括りに「命の価値は等価であるから権利も然り」と ?

みなさんは被害者にしかなり得ない人物なのですか?

以前、池田小学校殺傷事件の議論の際も出た話ですね。「加害者になるかも」という仮定で論じるコトと「加害者にはなりたくない」という意思で論じるコトは導く物が違います。

殺人と言っても様々なケースがあり、下される判決もまた様々です。死刑が確定した受刑者が恩赦を受け減刑された例もあります。市川の一家殺害事件の犯人のような残虐極まりない例もあります。「情状酌量」について、という話題と「死刑廃止について」という話題は別のものだと思いますけど。加害者=死刑、ではありませんよね ?

ちなみに

殺人2人までなら無期懲役、3人を超えると死刑

犯行の罪質、動機、残虐性、殺害数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状を判断基準とし、殺害数が1 名の場合は無期懲役、4名の場合は死刑と、大体決まっているそうです。が、勿論例外はあるので人数的なコトは法律で定められているわけではありません。

Kさま

まず、僕の結論と立場から書いておきますと、結論は「死刑→廃止」、「無期懲役→廃止」、「終身刑→導入」、「恩赦→廃止」←(これについては論点がズレるのでまたの機会に)です。また、今までのカキコで近い或いは共感する部分が多いのは「Sサン」、「Sさん」、「Nさん」、「Oサン」です。

さて、僕は10代の頃はバリバリの死刑推進論者でした。しかし、30歳という年齢になり人間の弱さや心の闇というものが少しずつ理解出来るようになってきて、物事の考え方も次第に変わってきました。この死刑についてもその一つなんです。

僕が「罪と刑罰」←(注:「罪と罰」ではない)を考える上でもっとも重要視する部分は「救い」です。ただ、「救い」と言っても宗教的な意味での「救い」ではありません。つまり被害者、被害者のご家族、加害者(死刑因)、裁判・受刑に関わる多くの方々、そしてこの社会を構成する全ての人々にとっての精神的な意味合いでの「救い」です。

僕の考えでは加害者(死刑因)が処刑されることによって果たして「救い」があるのか甚だ疑問に感じるのです。正直、後味の悪さだけが残るのではないかと思うのです。

では、いったい「救い」とは何かということですが、僕は加害者が改悛して真人間になった時はじめて本当の意味での「救い」があるのではないかと感じるのです←(詳しくはSサンの見解とかなり重複致しますので省略します)

さて、もう一つ現実問題として書かなければならないことがあります。それは死刑執行人の人権問題です。僕が死刑廃止論者になった要因はこの部分が実は大きく関係しています。

大塚公子という人が死刑執行人に直接取材して書いた『死刑執行人の苦悩』という本をご存知でしょうか?この本で死刑執行人の赤裸々な告白を読んでいるとあまりにも彼等にとって惨い制度だと言わざるを得ません。

Kさま

賛成。つ~か、全ての犯罪について、目には目を、歯には歯をにしたいですね。

痴漢とかレイプしたら、去勢。物を盗んだり壊したりしたら、対価を返却。できない場合は強制労働。人を殺したら死刑。

Fさま

懲役刑について言えば、私は1日だって拘束されたくありません。1年とかそれ以上拘束されること、想像すると絶望的な気持ちがします。やりたいことも、会いたい人もいるのに、たった一度しかない人生の貴重な一瞬一瞬を、無駄に削るだなんて耐えられない。そうして、そんな長期的拘束・もしくは死刑になって、自分の人生を捨ててまで、犯す価値のある(変な言い方ですが)殺人なんてあるのでしょうか。あまりに割が悪すぎる、と考えます。

また、もし法がなく、何の罪にも問われないとしても、私は人を殺したいと思いません。そのせいで自分がずっと嫌な気持ちで生きていかなきゃいけないのだと思うとぞっとします。頼まれたって、法に問われなくたって、お金を積まれたって、やりたくない。

だから、私は殺人を犯さない。

そう考えて、振り返ってみると、殺人の加害者というのはとても哀しいものだと思います。彼らが殺人を犯したということはつまり、

1. 人を殺すことに罪悪感がない。(人を殺したい衝動を持っている。)かつ
2. 自分の人生に執着がない。もしくは
3. 想像力がない。あるいは
4. 事故

のどれかだからです。

1に当てはまる人、これはもう文句なしに可哀相です。道徳を教えられずにきてしまったのならとても不幸なことだし、教育を受けていても「殺人欲求」を持ってしまった人(神戸の事件などですね・・・)は本当、悪いくじ引いちゃったねって思います。ここで議論されている人たちを含め、私達が社会的に受け入れられる範囲での欲求しか持たなかったことは幸運なことだったと思いませんか?

そして2です。もちろん1の条件を備えた人が全て殺人を犯すわけではもちろんありません。その場合彼らを踏みとどまらせるのは2の自分の人生への執着であると考えます(かつ、と書いたのはそういうことです)。自分の人生だから、というだけでなく、周りの人を悲しませたくないから、とかも含みます。その執着を一切持てないのだとしたら、それはとても哀しいことです。夢も希望もないんですよね・・なんで、持てないんでしょう?社会を構成する私達に、責任は全くないんでしょうか?

そして世の中の殺人事件のほとんどの原因であろう、3の想像力のなさを考えます。10年先、20年先、家族、未来の家族、自分の人生、そういったものを考えると、殺人なんてできませんよね?先ほども書いたとおり本当に割が合わないのですから。生涯殺人者の肩書きを背負うこと、いつ後悔するか分からない。そこまで考えることが出来ずに犯してしまった殺人はとても哀しい。犯罪を犯して10年たって、後悔するくらいなら、なぜする前に気づけなかったのか?やはり自業自得とは言え、加害者もまた被害者であると思わずにはいられません。

「誰だって、人に非難されない生き方が出来るのなら、それに越したことはないんです。」

私は被害者の経験も加害者の経験もないので、彼らの気持ちの本当のところは分かりません。ただ、想像するのみです。私が犯罪に関わって来なかったのは、自分のせい、というよりただひとえに幸運だったからだと思っています。ここに書き込まれた方も、ほとんどがそうではないかと思います。

そんな私達のすべきことは、「犯罪者にどんな罰を与えるか」ではなく、どうやったら犯罪が防げるか、ではないでしょうか?今までの投稿にもありましたが、結局、同じ罰を与えても犯罪者によってその受け取り方は違うのです(死にたい人に対する死刑は罰なんでしょうか?)。被害者の方の心情もまた千差万別でしょう。

極論を言えば、「犯罪者にどんな罰を与えるか」なんて、関わった人しか決められないと思います。そこに、当たらずといえども遠からずなところにラインを引くのが法であると考えますから、「死刑」の廃止云々は本質ではないように思うのです。

犯罪者は死んでいいんだよ、的な考え方、特に「殺人が趣味みたいなやつは生きてる価値ないから死んで」的な考え方は、あまりに想像力が足りなくないですか?例えば、人を好きになるということが非常識な世界があったとしたら(好きになられたら迷惑だ!というような。在り得ないですが。)その世界で人を好きになってしまった人はどうすればいいのでしょう?馬鹿馬鹿しい例えだとは思いますが、同じことだと私は思います。

そして、そういった短絡的な決め付けでは、犯罪を抑制することは出来ないし、むしろそういった世の中が犯罪を助長しているのではないでしょうか。

もちろん私は被害者の心情を考えないわけではありません。自分だったらものすごく辛いです。すごくすごく苦しいです。そのことで加害者に何の利益もないのだとしたら尚更です。悔しいです。何のためにこの犯罪がおこったの?って思います。そしてどんな罰が与えられても、きっと救われないと思います。ただただ、運命を呪うばかりでしょう。やりきれない気持ちがします。

だから、どうすれば犯罪を減らせるのかを真剣に考えたいです。死刑が、安易に・想像が追いつかずに犯罪を犯してしまう人の、ほんの少しでもストッパーになるのであれば、あった方がいいと思います。ただ、変な話ですが、やるなら、もっと真剣に、ストッパーとしての役割を果たすぐらいにきっちりやって欲しいと思います。被害者を防ぐのはもちろん、加害者も防げるように。自分の内に歯止めを持てなかった人を、無理やり止めてあげられるような。

”犯罪者は問答無用で逝ってよし。”

理解できないものを排除しているだけじゃ、いつまでも犯罪はなくならないんです。

長くなってすみません。殺人についてのみ言及しましたが、他の犯罪に対しても、基本的には同じ考えです。言いたいことが伝われば幸いです。

Aさま

う~ん、難しいですね。今のところ私は賛成派です。これからも再び、残虐な犯罪を繰り返す可能性があって、
更生の見込みが”全く無い”から死刑にすると私は思うんですが、これをきちんと判決できるかというと難しいでしょうね。

でも、自分にはとても想像のできないような非情な犯罪者もいると思うと、むやみに「犯罪者でも死刑はダメだ」とは私には言えません。

無期懲役と死刑の間って空き過ぎだと思うので、とりあえず、終身刑だけは取り入れて欲しいと思います。

Oさま

これ、被害者の遺族の前で言えますか ?「当然のように生きてゆく権利を加害者だって守りたいんです。」と。「ヒトとして生きて行く権利を守りたいんです。」と。

加害者の弁護をするつもりは毛頭ありません。ただ、あんまり人権擁護団体が馬鹿にされすぎていると思っただけで。憲法に基本的人権の尊重が定められていますが、それを守っているのは他ならぬ彼らの運動ではないのでしょうか。

政治に関心のない国民ばかりだから新ガイドラインが改悪され有事立法が着々と整えられ平和憲法さえ変えられようとしている。ま、それは別の話題として、国は権利や義務を変えることができる。それを市民が自分たちの手で守ろうとすることがそんなに卑下されることなの?ってことを言いたかったんです。

当然、被害者の人権も侵されるべきではありません。それが第一。被害にあってしまったのだから今生きている人間のことだけを考えて…と言った話ではなく、誰もが当然のように生きていける世の中をってことを言いたかったのですが。スタートラインが違ってましたね。

一括りに「命の価値は等価であるから権利も然り」と ?

僕は命の価値に差があるとは思いません。いや、違うな。「死んでもいい命がある」とは思いません。人間の価値には差があると思いますが。命に対して個人差がどうこうとか論じるのはなんかピンとこないな。

確かに「死刑」という言葉にヒステリックに反応するおじさんおばさんを見てると引くものがあるのですが…f(^_^;) 僕の考えは「死刑反対」。

「生きて償え」。そして「殺人の起こらない世の中を」。

Iさま

人権保護団体を馬鹿にしているのではなく、彼らの「運動」というのは、人権保護に名を借りた『左翼活動』なのよね。

人権保護・・・弱者保護とも言い換えますが、彼らにとっては弱者ならなんでもいいわけで、それが、身障者だったり、被差別部落民だったり、在日だったり、ハンセン病患者だったり・・・「弱者を保護する」理念は立派なのですが、聞こえがいい話ではありますが、先の参院選の社民党を例にだすと、「痛みを伴った改革反対!!痛みに耐えられない人はどーするんだ!!」というのが彼らの主張だったわけで、痛みに耐えられない人=弱者を保護するため、改革断固阻止!!を訴える姿は滑稽にみえませんでしたか?

日本が民主主義国家であるかぎり、公共の利益(多数の利益)が優先されるのは当然なわけで、それが100%正しいわけじゃないということはみんな気がついてはいるのだけれど、「結局それしかない」という結論に達するのではないでしょうか?

そういった中で、死刑制度というのは、100%正しいことじゃないけれど、日本という国の規律の中で、それを著しく破った人間に対する処罰としては、「結局それしかない」のではないでしょうか??

被害者も加害者もお互いに100%納得できるシステムではありませんが、加害者には「おまえにも罪を犯した理由があったんだろうけど、おまえは日本という国のルールにおいて、死刑になりうる犯罪を犯した」被害者には「死刑で納得するもんでもないだろうけど、仇討ちしたい気持ちもあるだろうけど、かわりに国家として仇を討ったから、納得してくれ」

そこが妥協点だと思うんだけど。

『感情論』や『冤罪』『改心の可能性』についての話を抜きに、死刑制度のみを論じるとしたらね。

Kさま

僕には2人の子供がいてるのですが、もし自分の子供が理不尽に殺されるようなことにでもなると、とてもじゃないけど正気を保つ自信ありません。突如理不尽な理由で家族が欠けると何処で精神を保てば良いのでしょうか。

刑期を終えた殺人犯が更正したといい、出所してきたときに自分の住んでいる街には誰も来て欲しくはないと思います。死刑を反対される方はどんな残虐な殺人者でも「刑期を終えたのできっと更正していますよ」と手放しで信じ、「自分と同じ街で生活しても良いですよ」と言えるのでしょうか?僕には理解が出来ません。

すべての殺人者に「死刑」をとは思いませんが、快楽、自己利益、の為に人を殺せる人間にはやはり「死刑」をと思います。

Rさま

私は基本的に“生きる権利”は誰にもあるモノだと思っている。けれど、それは人の生きる権利を守る義務を果たした時点で与えられるモノだと思う。

法を守る義務を遂行しない人に、法に守られる権利が発生していいハズが無い。人の命を大切にしない人が、自分の命を大切にされるなんて思ってはいけない。自分一人で生きていられると思っているなら大間違いだ・・・

Dさま

死刑反対の人の意見の中で「刑罰で縛ることなく、道徳心を育て犯罪そのものをなくす」というのがあったと思いますが、これは理想的には非のうちようがなく正しいことと思います。

ただですね、現実を見るとそういうわけにはいかない。実際に更正しない凶悪犯というのは過去にもいたわけですし、現在の状況では未来にも出てこない保証は全くない。

とするとですね、そういう保証がない限り刑罰で「縛る」行為は仕方がないことだと思うんですよ。

犯罪をなくしたい、これはだれしもそう思うことだと思うんです。ただ、刑罰の「縛り」を弱めたりなくしたりするのは実際に犯罪が0になったときになって初めてできることだと思うんです。これは犯罪が減っただけではだめです。被害者にとっては0か1、即ち犯罪を受けたか受けないかだけの問題ですから。

あとですね、「死刑」の是非というのは「感情論」を全く0にして考えるとどうしても「死刑反対」のほうにいきつきます。結局死刑制度賛成派の一番の理由は「被害者の気持ちは?」というところにいきつきますし(これは私は「感情論」だと思います。否定する人もいらっしゃるかもしれませんが。)。

ただ私が思うのはですね、法律に「感情論」を少しでも持ち出すことが本当にいけないことか?ということです。これは私の持論ですが、法律といっても人間を相手にしている以上、全く感情論を抜きにするのはどうかと思うんですよ。もちろん感情論が先行するのもいかんと思うのですが(そういう意味で陪審員制度はあまり賛成できません)。あと、感情論を完全に抜きにすると「情状酌量」も成り立たなくなります。

Kさま

死刑というのは、やはりあるべきだと思います。

どなたかが書いていらしたことに、『国や政府が守ってくれない。だから自分の命は自分で守る』みたいな内容があったかと思いますが。今の日本ほど、国がしっかりと国民の命を守っている国って珍しいと思います。なんせ、国民皆兵の制度が無い。戦争が想定された生活を送っていない。外交が下手とか何とか言われますけれども、とにかく現在までこれで半世紀、戦争をしないで済むよう外交等行われてきたわけで(その是非はまた別でしょうが)。夜一人で歩いていても、襲われないし、殺されない。無茶苦茶に守られている国だと思います。

平穏に生きている人の無事が守られることには、己も諸手を上げて賛成しますが。平穏に生きる意思の無い、もしくはその平穏を乱す存在にまで、その無事を守るのは行き過ぎだと思います。

殺人者は皆死ぬべし、とまでは思いません。散々暴力を振るわれた末の殺人と、無差別殺人を一緒にするわけにはいかないです。でも、日本という国では、裁判というものがあります。不満があるならば上告という形で見直しもし、尚、もうこれは死刑という形でなければ償えない罪を犯している、と、判断されての死刑なわけで。

無論、死刑に至る犯罪を減らすことが、第1ではあるかと思います。けれども、死刑という制度があることが、犯罪抑制の力になっていると思うのです。少年法によって守られているうちに、と、犯罪を犯す連中の多発で少年法が厳しくなったことを考えると、己は、今の日本で死刑が無くなることって、本当に怖いと思います。

居ない、と、思いますか?「何やったって良いんだ。うちの国は死刑無いからな、最悪でも一生閉じ込められるだけさ」と言いだす人間が。閉じ込められることは厳しいですけれども。でもそれは死ほどの犯罪抑制力を持ちません。生きていられるんだもの。

どっちかというと、まみやさんの「この程度で死なせて堪るか」というのに賛成したいですが。某似非教祖の逮捕された時には、バーチャルリアリティの極限まで使って、死を何度も何度も繰り返させてやれないものか、と、本当に思いましたから。

死刑制度には、賛成です。死刑制度を適用される人間というのは、基本として、死刑制度が無ければそれを一番悪用しそうだから。そして、人権団体が守りたがる善良なる一般市民は、基本として、死刑があったって怖く無いから。必要悪として……しかし必要な制度だと思います。

Yさま

俺もあったほうが良いと思います。犯罪者のなかで殺人及び連続殺人を行った者については死刑でいい。ただ今の死刑は絞首刑で、落ちた瞬間に意識が吹っ飛びそのまま死亡するんですよね。残虐な死刑方法は基本的人権で禁止されていますから、中国や他国のように電気椅子、銃殺、毒ガス、首切りなどの行為は当然出来ません。

俺が思うに犯罪者の半分は反省していないと思います。日本の法律は犯罪者に優しい国だそうですから。犯罪者だって「数十年したら出られる」としか思わない奴もいると聞きますし。

結論としては死刑囚に基本的人権はいらない。そう思います。

Tさま

・・・で、今現在の僕の意見は、「死刑反対」です。

といっても、「殺人者にも人権があるんだ!」という理由で反対するんではなくて、「冤罪」を恐れてです。やはり、裁判も人間がやるものだし、無実を裏付ける証拠・証言が後から出てくるとかで、誤判をしてしまう可能性は大いにあると思うんです。

もし、無実なのに死刑にされてしまったら、後で無実の証拠が出てきても、もうどうしようもないってのは、余りにもひどい話だと思います。この場合、「冤罪」の人を死刑にしたことで、別に誰かに刑が生じることもなく、ほんとに無実の罪で死んだ人には何も償いがないので、事件の被害者よりも、一層、理不尽な思いだと思います。被害者には、一応、事件の加害者に「被害者に対して」の罪により刑罰が課せられることで、償いはあるわけですからね。

といっても、別に誤判をした裁判官に刑罰を課せと言ってるわけではないですよ。裁判の時点で集まった証拠だけでは、それが「正しい」判決であるのがほとんどでしょうから。もちろん、裁判官の人たちには「誤判」を避けるための最大限の努力を払ってもらわなくてはなりませんが。

つまり、結論としてはですね。凶悪な殺人者を死刑にしたいのはやまやまなんですが、「冤罪」で死刑にされてしまう人が出てしまう可能性を考えると、どうしても「死刑賛成」とは・・・、ってことです。

もちろん、極刑が「無期懲役」では甘いと思うので、「生かしたままで」より厳しい刑は必要だと思いますが・・・。

その3へ続きます。

掲示板から抜き出しているので、コメントにレスが付いてるものもあったりして大変わかりづらい感じになってしまってますゴメンナサイ。そして2002年頃と書いたのですが、池田小学校の事件が起こったのは2001年ですので、2001年のやり取りかもしれませんゴメンナサイごめんなさい。