優しさに支えられています
コメントをくださったみなさまどうもありがとう。旬もすっかり過ぎてしまったので、レスしづらいったら。
というわけで<レスしないんだな
いきなり冬到来でまいってます。何着ればいいんだろう。って、どんな季節でも言ってる気がする。そしてそれは気のせいじゃない。
久々に弱ってます。
体が、とか 周囲に、とか そういうものではなく。それら(に)は常に変わらず弱っているので最早問題ではないのです。こんなに骨の髄まで落ちてるのって、どれだけぶりだろう。
わたくしは神経が(というより精神面が)脆いので、ひとと付き合うときは如何に傷を最小限で抑えられるかを考えます。基本的に、深い付き合いをすることもございませんし、感情を露にすることもございません。
溢れる感情そのままに自分以外の誰かと接すれば、同じように相手の感情の波に飲み込まれなくてはならない。わたくしにはそれが耐え難いので、他人と接するときは色んなことに想像を巡らせ、一番傷付かない方法を選びます。それが、わたくしが生きる上で培った処世術だったのです。
それがここに来て、こんなにも邪魔になるとは。
最初から、叶わないとわかっている夢を見ようと思うひとはいないと思います。叶うかもしれないと思うから、手を伸ばすわけで。己から手を伸ばしたことがないので、わたくしはまず伸ばし方がわからない。仮に伸ばした手を取って貰ったとして、次はその手をどうすればよいのかわからない。逆にその手を振り払われても、その後どうしたらよいのかわからない。
相手が伸ばした手なら、その手を上手に取って、愛でることも守ることもできるのに。
しかし、そうして伸ばされた手を一瞬でも引かれると、途端に不安になるのです。
己の周りで起こることは総てに意味があって、どんな些細な出来事もそれを知る必然があったのだと、常に思って生きて来ました。猫を迎えることも、その猫を救うなどというおこがましい思いなどではなく、その猫を通じてわたくしには何かを知る必要があったのだと。
それは、責任感や、命の大切さや、愛するものの存在や、忍耐なのかもしれない。猫について思うこと、感じること、総てがわたくしに必要だった「何か」なのではないかと。
猫に限らず、家族や、友人や、恋人や、部下や、上司、その総ての関わりの中で思うことや感じること。そこから逃げ出すことにさえ、きっと意味があるのだと。
ただ今は
そう考えることもできないくらい、衰弱しています。
本当は、感情だけでよかったのかもしれない。
お目汚し失礼。