魂の行方

ヒト日記 141-160
まじめな駄文

魂の行方

モニターに映し出される緑の線はただひたすらに直線を描いていた。
その右下にある「0」という文字がわたしの思考回路を止めた。

「残念ですが…」

神妙な面持ちで白衣を身に纏った医師が最期の時を告げた。

母は優しく髪を撫でながら「まだ温かいね…」とつぶやき、認めざるを得ない現実を受け入れたのか深々と頭をさげた。「本当にありがとうございました」。

母の母、つまりわたしの祖母は88年の生涯を病院のベッドの上で静かに終えた。苦しくはなかっただろうか。辛くはなかっただろうか。寂しくはなかっただろうか。昏睡状態で意識のない間、祖母はどんな場所をさまよっていたのだろう。

そして

いままで確かに祖母の中にあった魂は、一体どこへ行ってしまったのだろう。

 

病院から我が家へ帰って来た祖母の顔は白く、とてもきれいだった。その安らかな寝顔を見ていると、息を引き取る瞬間が苦しいものではなかったように思えて、少しばかりわたしの心を軽くしてくれた。

──

宗教によって、亡くなったひとの行く先は変わるそうだ。

祖母は浄土真宗の門徒で、亡くなれば即往生が約束されていた。つまり、命が途絶えた瞬間に成仏し極楽浄土に迎えられ仏として生まれ変わるのだ。仏教でありながら、浄土真宗に輪廻転生の概念はない。

穏やかな浄土で仏としての永遠を約束されるのも悪くはないが、わたしとしては魂の存在を信じたい。

輪廻転生と聞くと真っ先にインドのカースト制度が頭に浮かぶ。カーストにはヴァルナ(種類 / 階級)があり、上から司祭、王族、市民、労働者と産まれたときから決まっていた。その中に、ヴァルナを持たずに産まれて来る者、アチュートと呼ばれる不可触民(最下層民)がいた。

カーストは親から受け継がれ産まれたあとに変更することはできないが、過去の行いの結果が現世であり、現世での行いがよければ来世は高いカーストに産まれることができるとされていたため、輪廻転生という思想は不可触民たちにいまの身分を受け入れ納得させるためのよい方便になったという。

穢れた者として産まれた彼らを、ヴァルナを持つ者たちは触れることはおろか目にすることさえ忌避し、蔑み、ひととして認められることのない「持たざる者」である彼らは口唇を噛み締めながら、それでもその魂を一所懸命磨き続けた。現世で徳を積めば、きっと次はヴァルナを持って産まれて来るのだと信じて。

 

ひとつの魂が容れ物を変えながら、産まれ、死に、また産まれては死んで行く。容れ物が変わるたびに新しい物語を紡いでは、歴史に名を遺すことすらあったかもしれない。

わたしは魂の輪廻を信じていたいし、それを願っているのだ。

──

大枠で捉えれば、わたしたち生き物は「生きている」のではなく「生かされている」のだろう。

食物を育てるのは「人間」かもしれないが、それは育つことの手助けをしているに過ぎず、種や苗が食べられる状態になることそれ自体は、人間の力によるものではない。それは食肉とて同じことだ。

わたしたちの力の及ばない所で、わたしたちを生かすための「命」が存在する。

 

そしてもっと根本的なことを言えば、わたしたちは自分の意思で心臓の動きを止めることはできない。もちろん放っておけば動き続けているものを、無理矢理止めるための「手段」は持っているだろうが、手を動かす、話す、目を閉じることなどとは違い「心臓を止める」ことはできない。

産まれて来ることが自分の意思でないのなら、死ぬこともまた自分の意思ではないのだ。

──

命が尽きたと同時に極楽浄土へと迎えられるため、浄土真宗にはいわゆる四十九日という概念もない。代わりに葬儀のあと「中陰法要」があり、集まった親族で故人を偲ぶ会食の席が設けられた。

仏教では、亡くなった方の魂は現世と来世の間を四十九日間さまよいながら、生前の行いを査定され次に産まれる場所が決まるのを待つとされている。四十九日間の査定が終わるとその魂は、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のいずれかの世界に再び産まれ落ちる。どの世界に転生するかは生前の行いにより決まるらしいが、どのような姿形で産まれるのかもまた、生前の行いにより決まるのだそうだ。

生前の行いは七日ごとに七回の審査を受けるため、遺された者は故人がよりよい世界に転生できるよう、追善供養として初七日しょなのかから七七日なななのか(四十九日)まで七日ごとに法要を行う。御経の声を審判官に届けると、故人の徳が増え生前のよい行いとして上乗せされるため、七日ごとの法要は四十九日目に言い渡される来世の行き先に影響を与えるという。

それが理由なのか、現世と来世の間でさまよっている魂は、七日ごとの法要がきちんと執り行われるのか気がかりで、とても不安定な状態にあるそうだ。「ご冥福をお祈りいたします」という言葉は、「冥土(死後の世界)での幸福」を祈る、つまり「迷わず冥土にたどり着き、死後もしあわせでありますように」と、故人を安心させるために宛てる言葉なのだと聞いて、四十九日間さまよっている魂の心配をしたほどだ。

──

祖母は現世と来世の間をさまようことも、遺された者がちゃんと法要を行うかと心配することも、四十九日後の審判に怯えることもなく、病室にあったモニターが緑の直線を描いていたときにはもう浄土へとたどり着いていたのだろう。

88歳ということもあり、中陰法要の会食の席は何らしんみりすることもなく、久々に顔を合わせる親戚同士の会合の場となって時折笑い声さえ響いたほどに「大往生」であったと思う。自分にも他人にも厳しく、強く、たくましいひとだったので、てっきり100歳まではどんなことがあろうと生きているものだと思っていたけれど。

 

斎場で納めの式が始まり、これで本当に最後ですからと棺の横へ促された母が、眠っている祖母の顔を見ながら「…やっぱり顔を見ると悲しくなるわね」と、それまで堪えていたであろう涙をぽとりとこぼした。祖母に似て気が強く人前で泣くようなことなどなかった母の泣き顔を見て、やはり魂は消えてなくなったりせず容れ物を変えながら久遠の旅を続けて欲しいな、と思った。

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

 

※ 浄土真宗でも四十九日法要はあります。ただ次に産まれる場所がよい場所であるようにと願うためではなく、遺された者の喪明けと納骨の儀式のために行われます。葬儀のあとの中陰法要(初七日法要)も遺族の精進明けの儀式として行われます。浄土真宗では「臨終即往生」とされているので亡くなった方はその時点で仏さまとなり極楽浄土にたどり着いているため、三途の川を渡ったり草葉の陰から見守るようなことはなく、旅は生きているうちに終わらせているので死出の旅支度も施しません。仏さまとなった故人は生きている方を救うためにこの世に帰って来るとされているので、葬儀を「告別式(別れを告げる)」とは言わないそうです。

※ 輪廻転生は、本来煩悩から脱却し(解脱といいます)輪廻の輪から外れ涅槃を目指すことを最終目的としています(即ちもう二度と産まれない状態)。「人間道」の上の「天道(天人の住む世界)」に産まれても煩悩は残ったままなので、仏教にも出逢えず(天にいるため)悟ることもできず人間より長い寿命を生きなければならないという苦悩はあるそうです。魂が産まれ変わるのは煩悩から脱却できておらず苦しみが続くことを意味するので、仏教としてはその状態をよしとしません。あくまでも、解脱し涅槃でのんびり暮らすことがゴールなのだそうです。