消化試合

消化試合

この世界は悲しいことのほうが多い。

「そんなことないよ。しあわせなことなんていっぱいあるじゃないか」そういうひとも当然いるだろう。しかし目を閉じると頭の中を侵食してくるものは、悲しみや寂しさ、不安や焦り、後悔や苦しさのほうが圧倒的に多い。ポジティブトリガーを引くことが下手なだけかもしれない。明日に希望を、夢を、生き甲斐を持てるなら、きっとこの世界はひどく美しくしあわせなのかもしれない。

仕事で使いたいデータがあったので、ポータブルHDDの中を探した。もう10年近く前のデータなのでどこに格納したのかさえ憶えておらず、ここかと思しきフォルダを片っ端から開いて行く。

サイトを立ち上げたばかりの頃の画像や文章、MSNメッセンジャーのログ、入り浸っていたネトゲの画像、mixiのバックアップ、サイトをブログにしたときのログ、Adobeのデータや音楽のデータ…探しているものにはまったくかすりもしないが、20年近くの「思い出」がそこかしこに散らばっていた。

MSNメッセンジャーのやり取りなんかは目を通しても「こんな話してたっけ」と思うほどの忘却っぷりだ。懐かしいなという感情すら湧かないそのやり取りから得られたものは「いまこのひとたちが何処で何をしているのか知らない」という身勝手な「置き去り感」だった。

道を間違えたのか、それとも単なる通過点だったのか、もうまるで接点のないひとたちとの会話には何の温度も感じなかった。それ故にとても寂しく不安な気持ちになる。縁が切れることが定められた道だったのか、と。

のらりくらりと20年もネットにつながっていれば、通り過ぎるひともいるだろう。それがたとえ世界で一番信用出来ると思っていた相手であったとしても、一時立ち止まって時間を共有し、そして離れて別々の世界を見ることになったとして何の不思議があるだろう。

それを考えると、向き合い方は変わってもその存在を確認出来る場所にいてくれる方々やお便りをくださる方々、twitterにレスポンスをくれる方々がいるということは、しあわせなことなのかもしれない。

 

ガッツリと残業のある会社で働いていたときにふと空を見上げて、何やってんだろう、これが自分のやりたいことなのか、と虚無感に襲われたことがあった。そのときいろいろなことを考えて「このねこたちがいなくなったら生きる理由ってないよなあ」と「生きている必要なんてないよなあ」と思った。そう思ったら肩の力が抜けてなんとなく楽になったような気がした。多く見積もっても知命を迎える頃にはねこたちはいなくなっているだろうなと思ったので、そこで仕切り直しをしようと。

一番大切にしていたねこを見送った日、本当に「生きる理由」がなくなった。そこから知命までは消化試合のようなもので、いまはただ毎日規則正しく薬を飲み、適度に仕事をして、その日を待っている。