そして季節は春

そして季節は春

1997年5月。

澄み渡った青空の下で1匹の猫を見つけた。
偶然、とある山中にある建物を仕事で使用することになり、そこの管理をしている方を訪ねた時のことだった。

かすかに聞こえる弱々しい猫の鳴き声。こんな場所で?と少しいぶかしげに辺りを見回すと低い植え込みに寄り添うように、小さな猫が居た。近付くと逃げるかな、といつも野良猫に近付く時にする小さな決心をしながらその植え込みに向かって一歩足を出すと猫は慌てたようにこちらに向かい小走りでかけ寄った。

「4~5日前から居るんですよ。」
建物を管理している方が少し呆れたように漏らしたその言葉を、私は猫の体を撫でながら「なるほどな」と聞いていた。ここに来る前までぴったりだったであろう赤いベルベットの首輪は今にも抜け落ちそうなくらい緩く首にぶらさがり、何気なく背に置いた手のひらには背骨の節が総て伝わって来る。

私は猫が好きだったが自分の責任で猫を育てるほどの執着心はなく、何より捨て猫を連れて帰ることの出来る状況にはなかったので、可哀相にと思いながらもその場を後にした。

しかし数時間後には同じ場所でその痩せ細った小さな猫に、せめてお腹だけは満たしてやろうとごはんを与えていた。無心に缶詰に顔を突っ込み貪るその姿に心が痛んだ。何故こんな山の中に置き去りに出来たのだろう。数日前まで暖かな家と温かな腕に守られていたであろう小さな猫にこの現状は過酷過ぎやしないか。

ごはんを与え始めて1週間も経たないある嵐の夜、私は土砂降りの中で身を隠す場所もなく震えているであろう猫を探しに家を出た。濡れた体をバスタオルで包み抱き上げた瞬間、私の中でひとつの覚悟が出来た。

離れていてはいけないのだ。
私以外の人間ではこの猫をしあわせには出来ないだろうと。

朝から慌しく病院に行き、血液検査をして貰い両腕に怪我をしていることをその時初めて知った。
「車にひかれたのか、心無い人間に虐待でもされたのか」
被毛とかさぶたで出来た膜をはがすと、ドロドロに膿んで見るに耐えない傷口が露出した。いつからだろう。初めて見た時にはまったく気付かなかった。車や人を怯える様子もなかったのに。もっと早く迎えに行く決心がついたなら、こんな怪我をさせなくても済んだかもしれない。

私の、猫に対する一番最初の後悔の念だった。

小さな猫はお行儀良く、本当によく躾のされた飼い猫そのものだった。
ただひとつだけ、食べることに関しては異常なほどの執着を見せ、私を困らせた。ほんの少し目を離した隙に、テーブルの上にある「食べ物」をくわえて逃げるのだ。パンでも、お菓子でも、ごはんのおかずでも。カレーライスの皿に顔を突っ込んだ時はさすがに慌てたが(猫の体には刺激が強過ぎると思った)放っておけばテーブルの上の食べ物は総て食い尽くしていたに違いない。

その理由がわかったのは、それから数日後だった。

小さく痩せ細ったその猫を私は「仔猫」だと疑いもしなかったのだが、実はお腹の中でこれまた小さな命を育てている「お母さん」だったのだ。こんな骨と皮だけになるまで痩せ細っていながらも、お腹の中で新しい命を育てていたのかと、まさに我が身を削って小さな命を育んでいたこの子を愛しいと思うと同時に、そんな子を山の中に置き去りにした人間が益々憎く思えた。

あれから9年。

住む場所を変えたり、猫家族が増えたりと多少の変化はあったものの、彼女は私の傍を離れることもなく(当然だが)勿論餓えで苦しむこともなく、まあまあしあわせな毎日を送っていただろう。そして今彼女は私のベッドの上で横たわっている。昨日までと違うことは彼女の名前を呼んでも、もう二度とあの愛らしい返事が聞けないことだ。

出逢った季節に
出逢った時と同じ姿で
彼女は神様の元へと旅立って行った。

乳腺腫瘍の摘出手術からわずか5ヶ月。
肺に転移した癌細胞は、見る見る内に彼女を衰弱させ、それでも苦しい息の下で彼女は懸命に生き続けた。もう頑張らなくてもいいよと何度も何度も繰り返し、せめてこれ以上苦しまずに済むようにと神様に縋り、何もしてあげられない自分の無力さを思い知りながら、今にも消えそうな命と共にあった数週間が終わりを告げました。

ふらふらとトイレに歩いて行き、トイレの段差を乗り越える事が出来ず、私の元へ来て最初で最後の粗相をした彼女は濡れた尻尾を気にするでもなく、またふらふらと歩き出し私の足元で言葉通りぱたんと倒れ、少し頭をもたげながら4、5回咳き込んで静かに動かなくなりました。あんなに荒く苦しそうだった呼吸がすっと止まり、体に張り付いていた被毛がふんわりと起き上がり、最後の最後まで返事をしていた尻尾が微動だにしなくなってやっと彼女は解放され、おいでという神様に着いて行ったのでしょう。

頑張ったね、えびちゃん。
本当によく頑張った。
お疲れさま。ありがとう。おやすみなさい。