彼の居た日々

彼の居た日々

彼はもうこの世にいなかった。

ただそこに「ある」だけだった。

僕は血液の行き届かなくなった彼の冷たい手を握りながら、謝ることしか出来なかった。

18年と340日の彼と過ごした日々もいつか、思い出という美しい記憶となり、まるで自分だけの秘密の宝箱をそっと開けていつもと変わらぬ中身を確かめては微笑むように、何度も取り出しながら愛おしさを確認する宝物になるのだろうか。

今はまだ、彼の名前を口にするだけでこぼれてくる涙すら止められないでいる僕にも。

横たわる彼に必要なものはわずかにも残ってはいなかった。
何も映さない大きな瞳を瞬きひとつせず見開いたまま、かすかに上下する腹部のみが「まだ死んでいないこと」を教えてくれる。
頭を撫でても、耳先に触れても、なんの反応も示すことはなかった。
「昏睡状態になったら意識もないから痛みも苦しみもないよ」と医師は言う。
彼の胸に聴診器を当ててみると、身動きひとつ取れずにいる悲しい姿とは裏腹に、ドクンドクンと力強い鼓動が耳に伝わってくる。
この冷たく、既に柔らかさの総てを無くしてしまい骨に皮が張り付くほど痩せ細った身体の何処に、彼の心臓は血液を送り出しているのだろうか。

彼と過ごした柔らかくてあたたかい日々が終わる。目の前の彼はその心臓を動かしてはいても、もう二度と僕を呼んで鳴くことはないし、僕の目を覗き込み膝によじ登って甘えることもない。

 

今すぐ何か手を打てば、例えば点滴をしてもらうなどの処置を取れば。

 

産まれてから外の世界を知ることのなかった彼の薄桃色の肉球は、これまで見たこともないようなくすんだ紫に変わっている。慌ててさする。しばらくさすっていると、紫色だった肉球がほんの少し薄桃色に戻る。
まだ生きているのだということを知って悲しくなる。意識だけがない彼の存在を一所懸命肯定してみても、やはり彼が鳴くことも動くことももうないのだ。

今彼はどこに居るのだろう。
苦しくはないか、寂しくはないか、ひとりで暗闇をさまよってはいないか。
僕はここに居るよ。きみの傍に居るよ。

最期の瞬間をこの目で見届ける。
彼と過ごした日々をまるごと受け入れることが、たったひとつ僕に残された「彼に対して出来ること」だ。

いつか必ず来ることがわかっていたのに、心の中でありえない奇跡を願う自分と、早く楽になれるように、苦しい時間が終わるように祈る自分とがひしめき合う。

 

ついに彼は、何も映していないであろう瞳を開けたまま、そっと最期を迎えた。
力強く打ち続けた鼓動はゆっくりとフェイドアウトして行った。
無音になる聴診器。彼は行ってしまった。
抱き上げて何度も何度も名前を呼んだ。溢れ出す涙は止まらなかった。

きみはしあわせだっただろうか。
僕の傍に産まれてしあわせだっただろうか。
僕は何処かで選択肢を間違えはしなかっただろうか。

もう彼は応えてはくれない。