彼女の物語

青空
毛 玉

ある晴れた春の日、山奥で1匹の痩せ細った仔猫に出逢った。赤いベルベットの首輪はくたびれて、いまにも抜け落ちそうになっていることから、相当長い時間放浪していたのだろうなということは安易に想像出来た。

放っておくことも出来ず、かといって連れて帰れる環境にもなかったが、まるで何かの使命のように毎日ごはんを持って彼女の元へと足を運んだ。

結局連れて帰ることを半ば強引に認めてもらい、梅雨の時期の嵐の夜その痩せた仔猫は僕の猫になった。

とても良く出来た子で、粗相することもなく呼べば必ず返事をする賢く可愛い猫だったが、ひとつだけ困ったことがあった。

やたらと食意地が張っていたのだ。

放浪生活でまともに食べられなかったせいなのかと、その食べ物(食べること)に対する執着心を理解しようとしてみたものの、さすがにカレーライスにまで顔を突っ込むのは尋常じゃないと思い、その癖の悪さを叱ったこともあった。

その理由が明らかになったのは、病院に連れて行った時の獣医師の思い掛けない一言からだった。

「もうすぐ産まれるね。」

僕の痩せた小さな猫は、お腹に命を宿していたのだった。

連れ帰ってからは一歩も外に出していないことから推測するに、この小さな猫はお腹に命を宿しながら、山奥での飢えに耐えていたことになる。

僕は彼女を叱ったことを反省した。

そうか、お腹の命を守るために、何としてでも栄養が必要だったんだね。

ほどなくして彼女は3匹の仔猫を立派に産み育てた。白黒のオス、三毛のメス、シャム柄のメス。

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9年後、彼女は乳腺腫瘍を患い数か月必死に病と闘いながらも僕の傍にいてくれた。しかし病魔は容赦なく彼女を蝕んで行き悲しいことに僕を残して旅立ってしまったが、彼女の忘れ形見である3匹の仔らは健やかにたくましく、大病を患うこともなく僕の傍に居てくれた。彼女が僕のために残してくれた宝物だったのだろう。

3匹の仔猫たちは次から次からやって来る得体の知れない野良猫や保護猫と、時には揉めたりすることもあったがまあまあしあわせに暮らしていたと思う。しかし仔らも段々と歳を重ね、14歳で三毛が、18歳で白黒が、彼女のいる遠い場所へと旅立って行った。

最後に残ったシャム柄は19歳と半年を生きている。しかし寄る年波には抗えず、そろそろ旅立ちの準備に入るようだ。

美しく聡明であった母親の元へと、3匹目の仔がゆっくりと、ゆっくりと旅支度を整える。

仔猫の頃の記憶を一日たりとも忘れることなく、毎日僕の母の首を吸いながら眠る甘えん坊でありながら、他の猫たちには寛容な態度で接するとても優しい心の持主だったシャム柄は、日に日に痩せ細って行き最近では歩くことさえ少々億劫になって来たようだ。

いままで傍にいたやわらかな命がその姿を変えながらどんどん旅立ちの日に向かっている。その様を見ていると、いままでもそうであったように悲しく、寂しい気持ちが胸の奥をざわつかせるのだが、それとは別に思うところがある。

長い長い時間を経て、彼女たち家族が再び同じ場所で巡り逢う。

「彼女の物語」は、このシャム柄がそこに行くことでひとつの節目を迎えるのだろう。

決して消えることのない数多の思い出を胸に、ひとつの家族の物語を見届けたいと思う。

 

※これは、2017年の2月に書いたものを加筆修正したものです。